トンネルの幽霊

　すっかり暗くなってしまった。

　ローカル線のひなびた駅に降り立った私は、到着予定時刻が遅くなり、つい早足になっていた。それもこれも、昼間に行った一件目の取材のせいだ。そこで大幅に時間をロスしたのが痛い。今夜のうちに、次の取材先である温泉旅館へ向かわなくてはならないというのに。

　私は旅行雑誌を中心に記事を書いているフリーライターだ。この仕事のお蔭で、日本全国を飛び回っている。

　それでもまだ私が行ったこともない温泉地は多い。今回は北九州にある某温泉地へ、単身、一泊二日というタイトなスケジュールで取材に訪れていた。

　最初に取材した穴場中の穴場と言われる炭酸泉の温泉は素晴らしかった。これから書く、私の記事を読んだ人が多く訪れ、賑わうことになるかもしれない。

　ところが次の目的先へ移動しようとしたところ、駅と温泉とを往復している古いバスが途中で車輌故障を起こし、山の中で二時間も足止めされてしまうというハプニング。正直、二件目の取材をキャンセルすべきか否か迷った。

　とりあえず、最寄り駅だと教えられたところまでは辿り着けた。ただ、ここから目的の温泉旅館まではかなりの距離がある。車でもないと難しいと、取材を申し込んだときに聞いていた。

　どうしたものか、と思案しながら、私は駅員が常駐していない無人の改札を出てみる。すると――

「ラッキー♪」

　思わず口笛を吹きたくなるくらい、私は自分の幸運を喜んだ。駅前に一台のタクシーが停まっていたからだ。地獄に仏とは、このことだろう。

　早速、私はタクシーに乗り込んだ。

「すみません。R旅館までお願いしたいのですが」

「R旅館？　今から、あそこへ？」

「はい。何か不都合でも？」

「いや、ここからR旅館までは四十分くらいかかるんだけど、街灯もない暗い山道を走ることになるから、こんな時間だと、ちょっとね」

「仕事があるので、今日中に辿り着きたいんです。どうしてもダメですか？」

「んー、別にそういうわけでもないんだけど……それに、あの道はアレが出るからなぁ」

　乗車拒否をするつもりなのか、タクシー運転手はあまり乗り気ではないようだった。

　ここで引き下がるわけにはいかない。

「アレが出るって、クマか何かですか？」

「いやいや、クマじゃなくて……あくまでも仲間内でよく噂されているだけで、私も実際にはお目にかかったことはないんだけど……」

　運転手の言葉は歯切れが悪い。次第に私は苛々してきた。

「どういうことです？」

「何と説明していいものか……んー、強いて言うなら、“トンネルの幽霊”……ですかね」

「えっ!?　トンネルの幽霊!?」

　幽霊と聞いた途端、私はワクワクした。

　トンネルの幽霊と言えば、とあるトンネルの付近で「雨の中、ずぶ濡れになって立っている女を車に乗せてやると、いつの間にか姿が消えており、座っていた後部座席だけが濡れていた」とか、「突然、目の前に飛び出して来た人を撥（は）ねたかと思い、慌てて車を降りてみると、そこには誰もおらず、再び運転し始めると今度はブレーキが利かなくなり、急カーブで事故に遭う」とか、そんな類のものだろう。

　今でこそ温泉記事のフリーライターなんかをやっているが、本当は都市伝説とか心霊スポットとか、私はそっち系の話が大好物なのである。フリーライターになったのも、そういった記事を書きたいと思ったからだ。

　ところが、そういったネタだけではとても仕事にならず、食べていけない。オカルトそのものが流行らないご時勢なのだ。やむを得ず、今はこうして生活のために旅行雑誌で記事を書いている有様だった。

　――だが、もしも本当に幽霊が拝めるのなら、これは願ってもないチャンスではないか！

　私は鼻息も荒く、奮発して財布から一万円札を出すと、渋るタクシーの運転手に渡した。

「お釣りはいりません！　是非とも乗せて行ってください！」

「……そうですか？　そこまでおっしゃるなら」

　現金なもので、一万円札を受け取ったタクシー運転手は料金メーターを作動させた。

　運転手が言っていた通り、駅から山道へと入ると一本の街灯もなく、外は真っ暗だった。タクシーはスピードを落とし気味にして、慎重にR旅館へと向かう。

　しかし、そのときの私の目的は、秘湯温泉の取材からトンネルの幽霊とやらに変わっていた。

　万が一に備えて、私は手元にカメラを用意した。温泉取材に使用しているものだが、もし可能なら、目の前に現れたトンネルの幽霊を激写してやろうと身構える。

　それからタクシーは何事もないまま、三十分近く走った。

　やがて、ずっと真っ暗だった山道に、突如、トンネルが現れる。

「これか！」

　車一台がやっと擦れ違えそうな、小さくて古いトンネルだった。ナトリウム灯の黄色い照明が暗闇に慣れた目に眩しいくらいだ。

　私は身を乗り出すようにして、窓の外を覗いた。幽霊がいやしないかと目を凝らす。

　タクシーはトンネルをくぐった。幽霊は現れない。私は左右を忙しなく捜してみたが、ひび割れた壁面から水が染み出ているのが見えるだけで、肝心の幽霊の姿を発見することは出来なかった。

　三十メートルそこそこのトンネルをタクシーは呆気なく通り抜けた。また、暗い山道へと出る。私は幽霊と会えなかったことにガッカリした。

　――いや、待てよ。

　今のトンネルに幽霊が出るとは限らない。この先に別のトンネルがあって、そこに出没するかも知れないではないか。

　私はタクシー運転手に尋ねようかと思ったが、この夜道の中、ハンドル操作に集中しているようなので、ちょっと声をかけづらかった。仕方なく、黙って次のチャンスを待つ。

　ところが――

「ふーっ、見えてきましたよ。あれがR温泉です」

　先程のトンネルから、さらに十五分くらい走行したところで、タクシー運転手がようやく緊張を解いた。見れば、前方に旅館の明かりが見える。

　しかし、私は目的地に到着できた喜びよりも落胆の方が大きかった。結局、あれから他にトンネルなどはなく、もちろん幽霊にも遭遇できなかったからである。

「……結局、現れませんでしたね、トンネルの幽霊」

「えっ？　お客さん、ご覧にならなかったんですか？」

　思わぬことを言われたみたいに驚き、運転手は私を振り返った。その反応に解せないのは私も同じだ。

「ご覧にって……運転手さんは見たと言うんですか？」

「ええ、もちろんです。私も初めての体験でしたが」

　――そんなバカな！　駅を出てからここまで、私は目を皿のようにして待ち構えていたんだぞ！　見逃すなんて、絶対に有り得ない！

「何処で見ました!?　教えてください!?」

　勢い込んだ私の剣幕に、タクシー運転手は気圧される。

「で、ですから、途中にトンネルがあったでしょ？」

「ええ」

「アレがそうなんですよ」

「はぁ？　アレがって……どういう意味です？」

　私は運転手の言っている意味が、さっぱり理解できなかった。

「本当はあんなところにトンネルなんかないんですよ。――いや、昔はあったそうなんですが、何でも三十年ほど前にひどい土砂崩れで崩落してしまったんだとか。以来、トンネルは造り直さず、迂回した安全な道を通したそうです。すると、いつの頃からか、ああやって幻のトンネルが現れるようになったとかで……不思議な話でしょ？　いや～、人間だけでなく、トンネルも幽霊になるんですねえ」